夏休みに手放すもの

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新潟に出張で、上越新幹線に乗った。(写真は信濃川にかかる万代橋)

大宮に近づいた頃か、iPodで流していたピル・エバンスのピアノに導かれるように、するすると記憶の紐がたぐり寄せられた。
そういや、小学生の頃、夏休みはいつもこのあたりで過ごしていたなあ。

車窓から眺めた大宮駅前は、当時の面影を残さないほど変貌していたが、賑やかな人の流れは、昔と変わらない。

母方の叔母の家族が大宮の隣駅に暮らしていて、学校が休みになると親戚の家を泊まり歩いていた私は、中でもこの家には好んで居候していた。

六つ上の高校生のヒロシちゃん、三つ上のユウコちゃん、同じ年のタケシちゃん、という3人のいとこと叔父叔母が五人家族で暮らすこの家におさまると、私は普段の第一子役割から解放された。

本気で一緒に遊ぶには年の離れすぎた2人の弟がいる“しっかり者のお姉ちゃん”の日常から、この家族の中では、私は、安心して羽目を外し、大騒ぎし、悪戯しては叔父を困らせる“やんちゃな末っ子”になれたのだ。

時折、3人のいとこたちが夏休みの部活動や地域活動に出かけて、ひとりぼっちになると、叔母が「今日は近くの大きな街に買い物に行こうね」と連れて行ってくれたのが、大宮だった。
人ごみの中、叔母に守られるように手を引かれ、見知らぬ街を歩くときは、母の手を独占できる“一人っ子”の気分だった。


子どもたちはみな、知らぬ間に家族の役割を担っている。
多くの場合、その同じ役割を、学校の中でも背負いがちだ。
周りの大人たちが、その役割をその子の性格や資質だと思い込めば、子ども自身もそう思い込み、そのまま成長していく。
そりゃあ窮屈だなあ・・・

せめて夏休みには、子どもたちが普段の家族の役割から解放される時間と場所を持てたらいい。
そのためにも、大人は、子どもを家族の役割に居留まらせないで、手放せたらいい。

ただそれだけで、役割は役割であって、自分そのものではないのだということを子ども自身が知り、いろんな役割を取り込んでは脱ぎ捨てることで、かけがえのない自分を創り始められるのだから。

新潟からの復路は、土曜日ということもあってか、リビングルームをそのまま車両に持ち込み、役割の強化トレーニングをしているような家族連れの姿が目立った。

子どもが解放されるには、大人自身も普段の役割にしがみつかず、自分を解放する夏休みが必要なのだ。
by teenspost | 2009-08-02 07:12 | ♪徒然Sawanism