白黒大魔王はサブいから、異なるものが同時に存在する文化の懐であったかくね!

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寒の土用のこの時期に恒例となった栃木男女共同参画センターでのアサーティブトレーニング2days。
今年も沢山の応募をいただき、できることなら全員来ていただきたいけれど、そうもいかず、悩んだ末に、38名の受講となった。

前日に宇都宮入りした私は、松が峰教会へ。
二日間の仕事を前に、心を鎮めに立ち寄れば、誰もいない静寂が出迎えてくれた。





マックス•ヒンデルの設計よる大谷石のみごとな聖堂では、日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語の日曜ミサが開かれている。

趣あるパイプオルガンがあり、誰もいないし、バッハのフーガかなんか弾きたくなるが、ちと我慢(´Д` )
明治時代、隣りは監獄だったらしいが、今も繁華街、花街のはずれに位置する。

f0107724_1224183.jpg付近には今では見かけなくなった小さな映画館もあり、半世紀つづく小さな餃子屋・焼きそば屋があり、若者たちの起業したショップがあり、さらに繁華街を挟んだ大通りの反対には二荒山神社もあり、ここも詣でる。

こういう聖と俗が融合する町並みというのは長い歴史と人々の営みが創り出すものであり、いまや全国どこへ行っても登場するスタバとコンビニとイオンモールと大型シネコンの金太郎飴の如き空虚さとは無縁だ。


私はクリスチャンではないけれど、幼い頃は、初台の聖アルフォンソ教会と代々木八幡の境内が遊び場であり、やがてクリスチャンのピアニストにクラッシックを師事したため、四谷のイグナチオ教会にも毎週数回は足を運ぶ思春期であった。

その一方で、早朝、通学路にあるラブホテルから出てくる疲れた男女を横目で眺めて登校し、休み時間に友達が持参したトランジスタラジオで選挙速報を聴き、放課後は裏通りで若いデザイナーたちの斬新なデモンストレーションを目の当たりにし、夏休みにはクラスメートと路上で16㍉の映画撮影をしたりした。

FENや深夜放送から流れるジャズやブルースやロックに心惹かれ、
いま振り返れば、その音楽を通じて《アサーティブネス》のエッセンスを受け取っていた。

異なるものが同時に存在する文化の幅というのは、子どもや若者にとって有難く、自由なものだ。

なんでこんなことを書いているかというと、年々、その幅の自由さが失われているからだ。

f0107724_12242880.jpg善か悪か、正しいか間違いか、豊かか貧しいか…といういわゆる白黒思考の中でコミュニケーションを紡ぐとすれば、その硬直した思考が大きなバリアとなって立ちはだかる。

「きちんと自己表現できる人(とできない人)がいる」「迷わず選択決定する人(と出来ない人)がいる」
「相手の心を傷つける人(と傷つけない人)がいる」「良い家族には正しい親(悪い家族には誤った親)がいる」「自信がある人(と自信がない人)がいる」…こんな思い込みの中で自己表現やコミュニケーションを学ぶのは至難の業だ。

実際はどうであれ表面だけ取り繕えばいい、嘘をついてでも相手を怒らせなければいい、なにも言わなければ波風立たない…というナルシシズムに行き着くしかないのだろうが、それこそが機能不全・暴力・コントロールの元凶。

f0107724_1229569.jpgならばどうするか、と言えば、幾つになっても遅くはないから、矛盾前提でプロセスを大事に踏んでいく表現活動や人と共につくりあげる体験を繰り返していくことだ。

さて、宇都宮の38名のアサーティブトレーニングは、相互の関係の中で、学びや気づきが深まり、様々な表現が共有された。

童謡「ちょうちょう」の替え歌でアサーティブな怒りの表現をつくったグループもいた。
正直に自分の日常のパターンを再現した参加者はそこから新しいパターンを生み出すロールプレイを行った。
誰かの質問や感想が、相互の気づきや癒しにつながった。

正解を求めるのではなく、内発的な表現と気づきを分かち合いながら、
こころとからだで共に学び、遊び、楽しむ関係性の学び。
またまた新たな境地が開けたかな。

ところで、3月30日(土)の夜、まちだ中央公民館ホール(109ビル)で、演劇、音楽、舞踊のライブをやろうかなー、と企画中。
詳細は近日発表。
by teenspost | 2013-01-21 13:05 | ♪渡り鳥の旅みやげ