コントロールとコミュニケーション

最近そこかしこで人間離れしたコントロールが目立つ。013.gif
コントロール過剰の世の中は生き難い。008.gif

この場合のコントロールとは、自分自身の感情や相手の行動等変えられないものを思い通りに操作しようとする管理や抑制のことだ。

第一段階 自分の感情を遮断して自分をコントロールする
第二段階 自分の心の揺れを否認するために、他者の言動をコントロールする
第三段階 相手と向き合わずに、第三者の言動をコントロールすることで相手をコントロールする

まるでコントロールのドミノ倒し005.gifのようだが、とにかく心の揺れというものを嫌い、他者に見せまいとする。
ままならない人生で心が揺れる時こそ、人は想像力や気づきや癒しを得るのに、コントロール過剰社会では心が揺れることはとってもいけないことになるらしい。

時に勘違いされがちだが、「こうしてほしい」とか「こうしたい」とか、欲求を持つこと自体がコントロールなのではない。
(「こうしてほしい」と相手への要求ばかりで、自分がどうしたいんだか分からないのでは困るけれど)
むしろ、そういう心の声を打ち消すことからコントロールははじまるといってもいい。
欲求を持ちながら、その欲求を自覚しないと、相手と折り合いをつけたり対話するコミュニケーションが成り立たなくなるからだ。

一言も言葉を発しないまま、「ああなったら、こうなるかもしれないけれど、それはこうじゃなくなるかもしれないので、こうするのは止めておこうかと思うが、やはりこうしたほうがいいのか・・・」なんて、延々自分のアタマの中だけで不毛な会議を続けていく。
幻想にとらわれて、現実や相手の存在がなくなる。

確かに、自分と異なる他者という存在と対話をし、コミュニケーションをするということは難しいことだ。
自分に向き合うこと、相手に向き合うことは、勇気と忍耐強さが必要だ。
正解もないし、お手軽な方法もない。

「難し〜い!」「ああメンドーだ!」
思い通りの結果を求める完璧主義が加わるほど、情緒をやりとりするコミュニケーションは、やってもムダだとか面倒臭いとかいわれて疎まれる。

そうして、コミュニケーションより、コントロールの方が容易い、という思考回路に行き着くのだろうか。

そもそも、人と人とが異なるものをやりとりするというコミュニケーションのイメージがないから、コントロールという選択しかなくなるともいえる。

コントロールは、「権威」「財力」「知力」「愛」「善意」「正義」というものを誤用(abuse)し、相手に問いかけもせず、耳を傾けることもせぬまま、一方的に不要な恐れや傷みや罪悪感や後ろめたさを垂れ流し、思い通りに操ろうとする。

それでも、他者とは思うように操れるものではない。
暴力がそうであるように、コントロールする者は、自分で築き上げた心の壁によって孤立する。
それゆえ、ますます心を閉ざして執着していく、という悪循環にはまる。

  負けるが勝ちよ
  損して得とれ
  急がば回れ

私たちはアジアに伝わる豊かな智慧と言葉を持っている。

心をひらき、自分の気持ちを認めるところから、人と共に生きるコミュニケーションへの道は拓けてくる。
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by teenspost | 2008-01-20 19:06 | ♪徒然Sawanism