ただ自由でいたいだけ

前回「認めない人」というテーマで書いたら、予想以上に直接反響が返ってきた。
「私のことを書いたのだと思った」という人が何人もいた。
実際には、そう言ってきた人のことを特定して書いたわけではないのだが、その人がそう思ったということは、その人は「私は認めない人なんだ」と認めたということなのだろう。
・・・ややこしい。

だいだい、不特定多数が読むブログに誰かのことをねらって書いたのだとしたら、それは今、中高生たちを悩ませている「ネットいじめ」みたいじゃない。

そんなことじゃなくてさ、前回私が書いたことは、「どんな状況にあっても、自分にはどう行動するかを選べる自由があるのだ!」ということなのだ。

「自由とは、自分になされたことに対して、自分がどうするかである」(サルトル)という名言もあったっけね。

「認めない人」という性格や人格があるわけではなくて、「認めない人」というのは機能不全の特徴だ。
その機能不全に対するときの居心地悪さや自分の感情を認めず、無力を認めなければ、自分もまた同じように感じない思考停止の「認めない人」になるだろう。

さらには、なんとかして「認めない人」を認めさせようとしたり、あるいは、どうせ言っても認めないんだから何もしないとダンマリを決め込む対処は、かなり不自由だ。

「認めない人」は、相手と並ぶ接戦を嫌うという。
ぶっちぎりで一人勝ちをねらうか、一発逆転か、
あるいは、負けるくらいならハナから何もしないと諦めるか。

それは、自分の弱さや他者との違いを認めないからだ。
いつも他者と比較し、ひとりぼっちで他者を相手に苦戦するのは不自由だ。

他者と共に生きながら、昨日の自分よりマシに生きようとするとき、
その僅差の闘いもまた楽しくなる。
自由がほの見えてくる。
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by teenspost | 2008-04-12 22:21 | ♪徒然Sawanism