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ふっと、気がつくと、漢字が書けなくなっている!…慌てて、パソコンや携帯で変換して確認。
手・指で覚えているはずの身体的な感覚が危ういなあ・・・なんていうことが、パソコンを使うようになってから、増えたなあ。

筆記具で紙に書くという行為は肉体作業だが、パソコンで書くのは、どこか肉と体が切り離されている。
キーボードを打ちながら、感情がこみ上げてくるということがないわけではないけど、文字が揺れる、震える、かすれる、乱れる…というのは筆記特有の肉体表現だ。

だから、<直筆は見せたくない>という人もいる。

最近では、Facebookやtwitterの評価や承認や、既読表示がついてまわるSNSだと、<こんなこと書いたらどう思われるだろうか>という不安や恐れで、正直に書くことに抑制がかかり、無難なことしか言えないという声も聞く。

これは、子どもたちが学校の作文や感想文で、ほんとうのことは書けないというのと同じだな。

さらに、自分がよく思われたいと思うほど相手への想像力が欠落した言葉を吐いてしまう、なんてことも起こりがちだ。

こうして、書くということが、誠実性や肉体の感覚から離れていく。

書くという身体作業を通じた「癒し」は、さまざまな心身の自己治癒力の回復として有効であるのに、その機会を失うとしたら、もったいないことだ。

先日、高校生たちと、1時間、書くというレターカウンセリングを体験するワークをしてみた。

学校というと、周りにクラスメートや誰かしら人がいるわけだから、そういう場で書くワークをするというのは、今まであまりしたことがなかったのだが、書くことの意味を丁寧に説明した上で、書いてもらった。

「ここで書いたことは、回収したり、誰かに見せたりするものではない。ましてや、評価されるものでもありません。ただ、自分自身とおしゃべりするための作業です。テストではないから、書けなくてもいいし、書けないことがあっても、それはそれで発見となります。後になって、書きたくなった時に書くのでもいい」と。

その後、「書くということは素の自分とつながることなんだ、ということが初めてわかった!」という感想が届いた。

先の見えない未来への不安とともに無力感や絶望感に打ちひしがれる時、自分という存在が小さなものに思えるほど、世界はますます果てしなく遠く巨大なものになる。

さらに無力感を個人化して抱え込むとき、本当の自分は恥ずべきものとなる。
心の扉を固く閉じ、偽りの強さをまとうことで、自分や他者に向く暴力が生まれる。

そんな虚しいリベンジの闘いをやめて、奥底にある心の声をすくいとり、文字にして書いてみたら、かけがえのない自分という存在を認められるだろう。

「認める」は、「したためる」とも「みとめる」とも読む。

「認める」ことで、ありのままの姿に気づき、自己創出していく、、、それがレターカウンセリングの醍醐味だ。

今年は、久々、レターカウンセリング体験講座を開催するつもりでいる。

いま、このときに、書くことで自分を救うセルフヘルプをあらためて見直してみたい。
心のなかの子どもを救い、子どものアライとなる大人になるために。

「レターカウンセリング体験講座2017」詳細は>>>こちらから
by teenspost | 2017-01-30 13:51 | ♪スタジオ悠々日記